明照学園  理事長 コラム

野口校長先生の『今日を生きる』

明照学園理事長及び樹徳高等学校校長の野口秀樹校長先生のコラムになります。
学校の様子や校長先生が日々感じていること、考えていることを書き綴っています。
平成20年10月22日から、毎日更新中です。

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平成21年1月16日からの訪問人数

令和5年3月

3月22日(水)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
とうとう本日が今年度の最後の授業となりました。
午後には成績会議が行われます。
樹徳幼稚園では本日卒園式、おめでとうございます。
学校年度の令和4年がだんだん閉じて、令和5年度の入り口が見え始めております。
寂しかったり、嬉しかったりですね。
WBCの日本代表の活躍見事です。
決勝戦も楽しみにしております。

日本画家、東山魁夷画伯が書かれた素敵な言葉を見つけました。

山の雲は 雲自身の意志によって流れるのではく
また、波は 波自身の意志によってその音を立てているのではない。
それは宇宙の根本的なものの動きにより
生命の根源からの導きによってではないでしょうか。
そうであるならば
この小さな私自身もまた野の一本の草も
その導きによって生かされ動かされ歩まされているのではないか
そう思えてならないのです。

芸術家の目から見ても世間はこのように写るのであります。

若い頃は自分の意思で動くんだ動くんだと力んでいた私ですが、今はなにか大きな力で生かされ生きている感じがいたします。
人や何かとの出会いも偶然ではなく必然なのだろうと・・・。

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3月20日(月)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。

私のお茶のお仲間の先生が抹茶を点てるときに使う茶筅(ちゃせん)の供養を進めている方がおります。
お茶道具ですから何年も使っていると傷むのです。
これを供養する茶筅塚を造りたいと頑張っているのです。
塚とは供養するお墓のようなモニュメント。

『バカの壁』 の著者で医学者・解剖学者の養老孟司さんは子供の頃から昆虫採集を始め、10万点以上の昆虫標本を所蔵しているので有名です。
そんな養老さんも無駄な殺生をしてしまうので、鎌倉建長寺に虫塚を造らせて頂いたのだそうです。
語呂合わせでしょうか6月4日の虫の日にご供養してもらっているのだそうです。
これはとても日本人的感覚、使い古した道具や物に感謝するのです。
物にはみんな命があります。
豊かな感じがしませんか。
調べてみるといろいろな塚があるので驚きました。
針塚、茶筅塚、花塚、筆塚、卵塚、海老塚などなど。

南三陸へ行った帰り、伊達家の菩提寺瑞巌寺をお参りしたらこんな塚がありました。

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3月18日(土)

こんにちは、今日もよろしくお願いします。
今日はお彼岸の入りの日、お彼岸は一週間あるのですが、今日が第1日目です。
真ん中の日をお中日と呼び春分の日に当たります。
そして最終日が彼岸の明け、今年は24日になります。
雨でスタートする春の彼岸は珍しいのですが、私がつとめる寺はどちらもお墓参りの方が沢山見えております。
ご先祖を大事にできる偉い方たちだと感心しております。

今日18日は観音様のご縁日でもありまして、お参りに見えられた方たちにこんな文章を差し上げました。

人間はそれほど
強いものではありません

苦しいこと 
悲しいことに
胸ふさがれる日もあります
気力が萎える時もあります
そういう時 
どういう言葉を
口ずさんでいるか
それが運命を左右する
こともあるのです

だから心がけて
言葉を大切にして
いこうと思います

令和五年三月十八日

       かんのん様ご縁日  浄運寺
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3月17日(金)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
3時間の普通授業、その後放課、午後に第3回入学手続きが行われます。
これで新入生の数が決定します。

昨日はスーツの話をしましたが、アメリカ人の William Thourlby が書いた『You are what you wear』、直訳すると「着るもので人は判断される」、という本があります。
この本では、人は初見で、一瞬にしてその人の裏にあるものを想像してしまうというのです。
裏にある物とは、経済水準、教育水準、信頼性、社会的地位、教養水準、経済的背景、社会的背景、教育的背景、成功水準 品性の10項目を人は無意識に感じ取っている。
もし服装で相手に与える印象が決まってしまうとしたら、本当に怖いことであります。
毎日無防備に生活しておりますから、私などももう少し注意すれば好感度がアップするかもしれません。
モデルではないですが髪の毛、衣服、ネクタイ、着方、身のこなし、清潔感、声のトーン、表情など、大事にしてみます。
いくつになっても良くなりたいと思うタイプなのです。

閻魔様も何でもお見通し

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3月16日(木)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
授業もあと2日3日、令和4年度も終わりなんですね。生徒諸君にとってどんな1年だったのでしょうか。

学校に出勤している時の私の仕事着はスーツです。
ですから一年中スーツを着ております。
本校に勤めて45年、ネクタイを締めて上着を着て、緊張することもないし、肩がこることもない。
これだけ着ていると、いつの間にか好きなスーツができてくるのです。
ついつい着る回数が増えると今度はスーツが傷んでしまう。
最近はスーツも大事にするようになりましました。
ズボンのお尻のポケットは元々はついておりませんでした。
ところが実用的なアメリカ人が拳銃を入れるために考案したのだそうです。
もし銃を日常的に持ち歩かないならば、シルエットを美しく保つためには不要なのだそうです。
またズボンの折り返し(ダブル)、これも本来はありませんでした。
20世紀の初め頃イギリスの貴族がニューヨークで行われた結婚式参列する途中に雨に遭い、ズボンの裾を折り曲げて参列した。
これが定着したのだそうです。
くだらないことですが服の歴史など、長い間着ているといつの間にか覚えてしまうのです。
これも楽しい。

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3月15日(水)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
今日は午後から視聴覚教室、桐生市市民会館シルクーホールに移動致します。
演目は能狂言。
能といえばすぐ思い出すのが世阿弥です。
彼は室町時代の人ですが生涯に20篇ほどの伝書を残しています。
そればかりか彼は能の台本作家でもありました。
今も上演され続けているものが作品が50曲あるそうです。現在の能のレパートリーが200曲位ですから約4分の1が世阿弥の作品ということになります。
700年前の人ですから凄すぎます。
また若い頃は相当の美少年であったようです。
当時の文壇の重鎮、二条良基(にじょうよしもと)の手紙が残されているのですが、「あの美しい顔を思い出すだけで胸がしめつけられる。もう一度会いたいからつれてきてほしい・・・」

才色兼備の芸術家世阿弥でありましたが、晩年は苦労の連続、時の勢力とあわず島流しまであってしまう。
人生はわからないものであります。
でも彼の著書と作品、そして名声は今も残っている。

世阿弥の『花鏡』の中に初心のことが書かれております。
「是非とも初心忘るべからず、時々の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず」

大事な教えだと思います。

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3月14日(火)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
昨日の続きになりますが、南三陸町震災復興公園には報道関係者とテレビカメラがたくさん入っておりました。
ある場所では市長が挨拶したり、実況中継をしているような所もありました。
この公園の横には被害を受けたこの地区の事業者が集まってできた「さんさん商店街」があり、こちらも人であふれておりました。
私は1時間前から防災庁舎の正面に立っており、花を供養する人、喪服姿でお参りされる方、様々な方がこの庁舎の前で手を合わされるのをただ黙って見ておりました。
開始時間の10分前に、訛りの強いおばあちゃんが話しかけてまいりました。
「この庁舎の2階で一人息子が、住民の避難放送をしていたのです。5回位放送をして3階に上がって避難しようとしたら、まだ逃げない町民の姿が見えた。そこでまだ自分は逃げられないと2階へ戻って放送を続けているうちに・・・。」
気がつくと隣に喪服を着たおじいさんが涙ぐんでいました。
「12年経ってもまだつらい。」

このおばちゃんは何故私に話したかったのかな?

このご夫妻の悲しみが伝わってまいりました。
南三陸防災対策庁舎で亡くなられた43人のひとり、みんなのために尊い命をありがとうございました。

小学校の同級生や関係者を失ったであろう若者の集団が真剣に手を合わせております。
この場所は悲しみにあふれていたけれど、今は間違いなく祈りの場所です。

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3月13日(月)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
東日本大震災のご供養しっかり務めてまいりました。
南三陸町の旧庁舎があったところが現在、南三陸町震災復興祈念公園になっておりましてそこでお参り致しました。
庁舎はすべて流され、残っているのは3階立て防災対策庁舎の鉄骨と階段のみ、この2階で住民の避難の放送が行われていたのです。
でも、最後まで住民避難の指示をしていた町職員43人は亡くなったのです。
発生時間の14時46分にサイレンがなり、黙祷の後、鉄骨の防災対策庁舎の前で読経、多くのお花が手向けられ、遺族の方や全国各地から駆けつけた方たち、皆真剣に手を合わせておりました。
今は丘が築かれておりますので見えませんが、この目の前が当時海だったのです。
私はこの度初めての参加でしたが、お参りできて本当に良かったと思っております。
桐生ボランティア協議会の皆さん、桐生仏教会の老僧たちは、12年間続けておられるのです。
この人たちの行動力にも感動しました。
偉い人たちです。

これが有名な 防災対策庁舎です。

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3月11日(土)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
今日は3・11、東日本大震災が起こった日です。
あれらか12年が経過しました。早いですね。
約2万人の方がなくなった大惨事、お寺の法要ならば13回の供養の時であります。
私はこれから南三陸防災対策庁舎へ出かけてまいります。
桐生ボランティア協議会の方5名、桐生仏教会の僧侶5名、あちらで手を合わせてまいります。
桐生ボランティア協議会の皆様は、淡路阪神大震災の時も大活躍をされましたし、東日本についても群馬県で一番最初にアクションを起こした人たちです。
全国的に見ても相当早かったのです。
本校生も彼らの指導を受けながら延べ1000人がボランティアで現地に向かいました。
私も発生3ヶ月後の6月6日 ボランティアで現地へ出かけたことがございました。
あの悲惨な状況忘れることができません。
改めて冥福をお祈り致します。

本校生の泥かきボランティアの写真です。

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3月10日(金)

おはようございます。
今日もよろしくお願いします。
昨晩は「家康、桐生を造る」の講演会に行ってまいりました。
主催は桐生市、講師は織都桐生案内人の会の方たちでありました。
すごいのは参加者が100名を超えていたことです。
何故家康が桐生の町づくりを行ったか?
関ヶ原の合戦の時、徳川家康から命を受けた桐生では織機を総動員してたった1日で2410疋(ひき)の絹旗を織りだし献上したのです。
これは桐生市民の伝説になっている話とのことです。
1疋とは織物の単位で幅36cm、長さ22mの長さの織物で、2反、着物が2人分作れるのだそうです。
関ヶ原で大勝利した家康は貢献した桐生を特別に保護し、幕府の直轄地、天領にするのです。
そして代官大久保長安の手代大野八右衛門を派遣して「桐生新町」をつらせる。
絹旗の貢献ばかりではなく、桐生で生産する織物は当時の金券でもあったわけですので、家康にとったらやはり魅力的であったのでしょう。
以上の内容は桐生市民のプライドでもありますね。
桐生は結構素敵な町です

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